(photo by ヒロキヤマダ)

 

『「障害」って何だ?』はわたしの独立の根源。

 

3年前ぐらいにこんなブログを書いていたみたいです☟

 

🖊「発達障害があるからと省エネで生きる子にしない」

https://ameblo.jp/jam-inclusive/entry-12283163688.html

 

この時とベースはなにも変わってないんだけれど。

 

 

たとえば、

『自閉症スペクトラムは視覚が優位で声だけで長々説明されても苦痛だ、構造化しよう』という話、

これは大いにけっこうだと思う。

自分の生きやすいように環境を創るのは生きる上でとても大切なことだ。

 

 

だが、人間はロボットではない。

1人1人、ほんとにまったく違うのだ。

 

発達障害とカテゴライズされている子どもたちだって、千差万別。

そんななか、猫も杓子もいっぺんとおりの療育では、

子どもたちはもちろん、先生の側だってたのしくはないだろう。

少なくとも、わたしはそうだった。

 

 

大人側が決めた何かの時間があって、そこに合わせるために図や写真で示したりで「子どもを動かす」。

大人側が設定した学習をさせるために、わかりやすい指示の仕方を追求する。

 

そういう療育が今も日常的に行われている。

 

これは腹が立つを通り越し、とても悲しい現実だ。

子どもたちの気持ちは、いつどこで大切にされるねん。

療育とうたいながら、子どもたちの好奇心をカタチにする時間より優先されるのは、あらかじめ設定されたプログラムだ。

そして現場でそれを覆すのはなかなかに難しく、それなりの地位や力がなければほぼ不可能になっている。

 

(だからって、今の療育や障害児者福祉をただ批判し攻撃したいのではない。それはまた次の機会に。)

 

 

 

こんな仕事をするためにあの日保育士を志したわけじゃない、

こんな療育が、子どもたちがその子だからこその人生を生きることにほんとに役に立つのか?

と当時のわたしはその現状に何もできない自分にとてもムカついていた。

 


 

そのもっと前には、重症心身障害児と呼ばれる、

知的障害も身体障害も重いと言われる子どもたちや成人の人たちの担当になった数年間もある。

20年前の話だ。

 

 

当時担当していた人たちのお母さんは皆わたしにこう話した。

「この子に障害があるとわかったとき、この子が小さい時、この子を殺して私も死のうと思ってたよ」

「この子はお世話がないと生きられない、私が死ぬのはこの子が死んだ次の日」

って。

 

 

その時から、わたしの疑問も挑戦も始まったのだ。

 


(photo by ヒロキヤマダ)

 

「障害」についての、盛大な勘違い

 

 

言葉が話せなければ、

自分で排泄や更衣ができなければ、

自分でお金を稼いで生活できなければ、

『障害』なのか?

 

 

いや、もしもよ、もしも彼らが、

「話せない」のじゃなく「話さない」のだとしたら?

「~できない」のではなく「~しない」って決めて生まれてきてるんかもしらんやん??

 

 

だとしたら、『障害者は弱者だ』なんて、盛大な勘違いだ。

そんなん、常識なんていつひっくり返るか正味の話わからない。

 

 

『障害』があったら、

手帳もらって、

施設に通うか入るかして、

養護学校(今の特別支援学校)行って、

障害年金で生活して…

 

って、障害者として生まれたら日本では自分で自分の人生を選べないのかと思うと、20年前の若いわたしはゾッとしたし、理不尽さに憤った。

 

 

だって、何がちがうねん。

同じ人間やん。

 

 

それに、知的障害が重いと言われている人たちは人として人らしく、敏感な気がしている。

 

しかも彼らは、関わる人間のたくさんのことを「ゆるして」いるような感じがするのだ。

 

 

この感じ、共感する人がいたらうれしいなあーーー。

 

今ちょっと思い出したけどそれと似てて、寝たきりだったり意識ない人がなんにもわかってないなんて、そんなことないんやなって、病棟で働いていたころに知ってこの身で実感したこともある。

 

 

もうさ、どっち側からの観かたかは知らんけど、

一方的な価値観で、誰かが決めた価値観で、

人を「障害者」だとするのは早くやめよう。

 

障害って、ある時もない時もあるし、

ある人もない人もおるんちゃうんかなと思う。

そしてそれは、その人自身が決めるしかできないんじゃないか?

 

 

だからこそ人は一人ひとり違って、支え合えるし助け合えるし、

自分にしか担えない役割がある。すべての人に。

 

 

持って生まれたその人の個性や能力を、めいっぱい生かして生きる社会になったらいいと思いつづけてます。

わたし勝手に。それが人間本来の本能じゃないかなとも思う。

 

障害があるからって

「はい、あなたこっちの障害者用のレールねー」っていうのはもうやめよう。

 

 

障害があるから、みんなみんなが年金や手当があって守られるべきだ、ともわたしは感じない。

物理的にも経済的にも、今の日本で障害をもって生きるのは大変だというのも、知ってわかっているつもりです。

 

でもそれでも、いつでもどこででも誰であっても、

自分がどう生きるかを決めるのは自分。

 

そんなん言葉を話さない人たちはわからんし選ばれへんやん、って思うかもしれませんが、言葉じゃなくても何らかの表現をどんな人もしているもの。

 

 

彼らはそういう『目には観えないものを「感じる」機会や経験をわたしたちにもたらすっていう役割』を果たしてるのではないかなとわたしは思ってます。

なんかややこしい文章になったけど笑。

 


(photo by ヒロキヤマダ)

 

20年間わたしの心を焦がしている、

「インクルーシブ」ってこんなこと

 

すべての人が、絶対何かの役目があるから、その自分の個性や能力生かして、人と関わりあって成長して、自分を生きることを全うする。

 

そんな景色をわたしはずっと『インクルーシブ』と呼んでいて、

一生かけてその『インクルーシブ』をひろげたいと思い続けて20年経ちます。

 

 

そんな、長いことわたしが追い求めてきたインクルーシブを叶える形が、まさか、未来区みたいなまちづくりだってなんて。

これについては自分でもとてもびっくりしています。

 

たくさんの仲間と今もやっているけれど、これからもっともっと、

もっともーっっとたくさんの仲間が必要です!!

 

 

ほんとうに枠のない場が創りたい。

どんな条件もどんな個性も

思いっっっっっっきり生かせる場をひろげようよー!

 

 

「フン!お前の言うてることもまあわかるわ、

しょうがいないから、うちのやり方で仲間なったるわ!」

 

っていうそこのあなた。

ウェルカム トゥ 未来区!

 

今すぐ下記よりご連絡ください。笑

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