「学校に行きたくない」
画像に負けず、これほどにまで驚くお母さん、お父さんも多いと思います。(画像はお借りしています)
っと覚悟決め、我が子に声かけるお母さん、お父さんも多いと思います。
どうも、みなさんこんにちは。
最も多感な10代を1万羽のヒヨコ🐤と過ごしたという逸話を持っているだいすけです。(全て事実です)
この冬から未来区役所子ども未来課ではじまる「コミュニティスクール自然~JINEN~」のスタッフでもあります。
我が子が「学校に行きたくない」と言う。
「あっ、そう。分かったよ」と受け入れるのは中々難しいところではないでしょうか。
「何考えているか分からない」と戸惑われる方もいるのではないでしょうか。
さて、今日は、小中高大と不登校を経験した僕の小中の事例を、
◎当時の思っていたこと・感じていたこと
◎振り返って思う・感じること
◎どうやって乗り越えたか
の3つに分けてお話しします。
今なお我が子の理解に苦しむお母さん、お父さんの一助となることを期待して。
通院し、原因が分かると、投薬したわけでもないのに何故か頭痛は改善されました。
コソコソ話している人を見かけると、(自分のことを噂しているのか?)と不安になって落ち着かなくなるほどでした。
受験生の年にこの有り様で、母はとても心配したのか毎朝・毎晩、親子ゲンカでした。
クラス替えで、教室カーストを意識して友達関係にも気を使い続けた結果、心が限界を超えた様な苦しさがあったかなと感じます。
今、思うと、人に嫌われないか?とばかり気にして、本当の自分を見失っていたと思います。
《どうやって終わりを迎えたか》
中2については↑に書いた通りなので省略します。
中3のときは、家にも学校にも居場所がなくなり”自殺”を初めて考えた僕に救いの一言がありました。
「だいすけ、家で死んだ魚の目のようにしているなら、ばぁちゃん家にくるかい?」
という祖母の言葉でした。
元々おばあちゃん子だった僕は、自然豊かな田舎に住む祖父母のもとへ引っ越しました。
畑仕事や家業の畜産業を手伝う中で、それまでの昼夜逆転生活は規則正しい生活へ戻り、自然とヒヨコに囲まれ暮らす中で、心はあるべきところへ帰ってきました。
さて、ダイジェストにお送りしました。
で、結局のところ共通するのは
①理解者
誰か1人でも今の自分を理解する人がいること
僕の場合は、それが担任の先生であったり、祖母であったりでした。
②居心地よい環境
安心な心整える場があること
僕の場合は、それが病院であったり、祖父母宅であったりでした。
です。
親なんだからと孤独に奮闘することはしんどいでしょう。
周りの人や環境の手をかりること。家族や学校のチカラを借りれないこともあるでしょう。
そんな時は、民間でも親子の居場所をしている団体が増えています。
とにかく第3者のチカラを借りることが大事だなと僕自身の経験からそう思います。
ここまで書いておいて、
っというタイトルですね。
①理解者、②居心地よい環境、さえあれば”復帰”は叶うでしょう。心からそう思います。
でもね、実は僕、小・中と不登校した後にも、高校・大学と不登校になったんですね。
何が欠けていたと思いますか?
足りなかったのは、
『自己肯定感を育む関わり』
でした。
っと、ここらで長くなってきたので、後編へ続きます。
明日の更新をお楽しみに。